《第65号》「希望」が知恵をもたらし、「知恵」が縁を広げ、「縁」が運を呼ぶ!

若者の自殺者が増えるばかりか、
長寿難病の高齢者の孤独死や家庭内殺人が起こる・・・、
なんとも前途不安な世の中を反映してのことでしょう。

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いま≪希望学≫という新たな学問が持て囃されているといいますから、
ちょっとびっくりしてしまいます。

「希望の格差はなぜ起こるのか」
「金銭的に豊かでもなぜ希望が持てないのか」という命題を掲げ、
「個人の性格や感情としてだけでなく、
社会の産物として希望を考察していく」
と定義づけて、一流大学の社会科学者の先生たちが
鳩首を集めて研究分析しているということが、
先日、テレビで報道されました。

別に悪い研究とはいいませんが、この複雑混迷な時代です。
人生やいのちの意識領域の難題を
なんでも分析化、善悪化、二元化して、
それこそいま流行りの即答化、単純化させてしまう傾向は
ちょっと心配だなあ・・・と僕は思っています。

長年、正体不明のガンと付き合ってきた僕などにしてみれば、
「希望」という精神現象をただ頭でっかちな機械的な手法で分解しても、
多くの患者の悩みを救えるとは、とても思えないからです。
まえにもこのコラムで述べたように、
希望、いのち、そして人生を語る場合、
≪人間機械論と人間全体論≫≪二元論と一元論≫、
つまり≪西洋思考と東洋思考≫の間には大きな差があります。
僕の闘病経歴の中での≪希望学≫とは、
あくまで人間機械論ではなく≪人間全体論≫の立場であります。

しつこいガンと付き合う中で「希望こそ良薬 あきらめは毒薬」という、
いのちのキーワードに辿(たど)りつきました。
なんとしても調和的に「いのちを掴もう」――
拙著「ガンを切らずに10年延命」(増刷8刷)にも書いたように、
玄米菜食や薬食同源法、呼吸法などを継続励行して
≪希望力≫を磨いてきたわけです。

それも主治医であり、
ホリスティック医学(全体医学)の先覚者である
帯津良一博士の考え方に強く影響され、エンパワーされたからでした。

「希望在心中 生命在脚下」――
これが数万人のガン患者と共に苦楽を共にしておられる
帯津医師のホリスティック(全人的)な発想法の原点です。
決して、ただ機械的に、科学的に分析すればよし・・・
といった単純化、即答化された「希望学」ではありません。
その人間の生き方を丸ごと見る「いのちの実践希望学」について、
次のように語っておられます。

「心の養生のなかで、一番大事なのは『ときめき』だ。
ときめきは、自然治癒力を喚起したり
病を克服してくれる大事な心の状態で、
そのためには、何事にも感動する心をもつことが大切。
固定観念にとらわれず、諦観することもなく、好奇心を忘れない。
そして常に感謝の気持ちを忘れない。
ときめくことがいつまでも続くと、
人は放っておいても明るく前向きになって、
こうして得た明るさや前向きな気持ちは、
哀しみから出発しているだけに、
いつまでも有頂天になることなく、また哀しみに帰る。
ここに、心の循環というのができあがる。
≪哀しみ、希望、ときめき、明るく前向き、哀しみ≫
という流れの中で我々は、
大いなる命の循環の駒を進めていくのがよい」

「無理に明るく前向きを装っても希望は生まれない。
ただ、明るく前向きでは病気の克服も人生の転換も
そうそう掴めるものではない。
そうではなく、人間は哀しくて寂しいものだと思えば
希望もむくむくと湧いてきて病気も治る。
不運、災難、病気を克服するパワーの源はどこにあるのか?
といえば、
それは、自分のいのちの居場所を掴むこと、
つまり、ただ病を予防する≪守りの養生≫から、
生命の根源=150億年の果ての≪虚空≫と一体となるために、
自らの生命場を向上させて突き進む。
その≪攻めの養生≫を心がけることから
≪希望・ときめき≫の循環が生まれるのだ」と。

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